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2013年04月20日

今どこにいるのか。
この世界はどこにあるのか。
この世界は誰の世界とも同じではないだろう。
この世界は自分だけのものであり、誰のものでもない。
それぞれがそれぞれの世界を持っているし同じように見えていることはないだろう。
だけもが自分が今いる世界はみんなと同じ世界と考えているかもしれないがそんなことはない。
かんたんな話、赤に見えている色は自分が赤と思っているだけで同じように見えているとはだれにもわからない。
石を持ってみてもそれが本当にそこにあるのか誰がわかっているのか。
少し考えてみても先はよくわからない。

2007年10月11日

異常気象と言うけれど(3)

いろいろ言えば言えるもので。
現在の気象状況についていえばいろいろな説があるらしい。
気温が上る原因が二酸化炭素とする説もあれば、太陽活動の変動のためとする説もあるらしい。
しかし、ママコミそんな事はある事すら報道しない。
まあ報道するわけはないが。
報道なセンセーショナルにこした事はない。
大変だ、大変だとあおらなければ一般受けしないからだ。
真実を伝えるのが報道とえらそうに言っているがそんな事少しも考えていない(と言ったら極端すぎるかもしれないが)。
都合の悪い事は排除する。
それで当り前。
そんな情報の中で判断するのは大変。
そんなものだと覚えておかなければならない。
情報には人為的に色は付いているし、フィルターなかかっている。
惑わされてはいけない。
しかし方向が正しいと判断できれぱ無視するのではなく参加もすすんでしなければならない。
無視してばかりじゃ未来は関かない。
景常気象と騒ぐのではなくまず今を受けいれなければ。
いろいろな意見をもたなければ。
異常気象だけでも考えればいろいろある。
受け入れてその状態で考える。
あたり前じゃ何も始まらないがそれでも何も起らない。
物事の本質をまずつかまえなければ。
あまり報道に躍らされない様に。

2007年10月10日

異常気象と言うけれど(2)

異常気象に始まりいろいろな話に広がってしまったが、この頃の状態がどの程度異常なのかがわからない。
その前に異常じゃない気象とは何なのかがわかっていないのに、異常、異常とさわいではいないか。
テレビで言っていたから、新聞に書いてあったからという理由で異常といっているのではないか。
そう考えてみたらどうだろう。
みんなが言っているからではあぶないかもしれない。
本当にそうなのかという疑問はないだろうか。
確かに極の氷は解けてきているだろうし、砂漠は広がっているだろう。
しかしそれが本当に異常なのだろうか。
地球にも温暖な時期もあれば氷河期もあった。
未来永劫続くわけがない。
江戸時代には何度も干ばつが襲っているし、洪水も多かっただろう。
むかしは良かったと思えば今は異常かもしれないが、今があたりまえと思えば普通になってしまうだろう。
だからといって現在の省エネ、エコ運動を否定するものではない。
ただ、今を異常とするのはいかがなものかと思うだけ。
マスコミの一方しか見ていない、週常報道にはいかがなものかと思うだけ。
地球温暖化とエコロジーをいっしょにどうにかしようとするのに無理があるのかもしれない。
それと経済活動も。
おそらく全部パーフェクトは無理(あたりまえ〉。何とか落し所を考えないと、もっと大変になるかもしれない
あまりまわりの声におどらされたら大変と考えないと。
これも大変。

2007年09月19日

異常気象と言うけれど(1)

この頃またというかいつもというか、異常気候、地球温暖化とさわいでいる。
ちょっとその事について。
確かに暑かったり寒かったりして、その程度がこれまでなかったのは確かだろうと思う。
地球温暖化も進んでいるのだろう。
ニ酸化炭素が悪者になっているがそれにどれだけ真剣に対応しているのかはどうだろう。
リサイクルがいろいろ言われているが、リサイクルの名のもとに使われているPETボトルが資源の大量消費になっているという本も出ている。
それがすぺて正しいというわけではないが、大量消費による経済活動の維持の方に重きが置かれててる現実は否定できない。
ニ酸化炭素の削減についても大国は途上国との売買でつじつまを合せようとしている。
実際の所このままでは大きく改善される事はないだろう。
アメリカと日本を消し去ってその後に植林するぐらいの事をしなければ。
アマゾンの熱帯林が少なくなっていく事を問題にし圧力とかけようとする動きもあった。
ブラジルも発展したいわけだし、生産も伸ばしたいのは当り前。
それを押える事のできる国はない。
緑を減したくないなら自分の所で何とかすればいい話。
自分の国は現在以上の経済発展したい。
緑や二酸化炭素の対応は別の国がやればいいでは話にならない。
マスコミも勝手な事ばかり言っている。
出来もしない話をしてどうするのか。
まず受け入れて自分の事として対応してはどうか。
一昔前の生活に戻れたらだいぶ良くなるだろうが人間ではだめだろう。

2007年05月23日

久しぶり(2)

昨日、さあ続きと書いたがそれほど続きを読んだわけではない。
でも続きを。
最初の人がどうだったかは知らないが、一部の宗教が全知全能の神を作り出し(作り出すというのもおかしいみたいだが)この世は神が作ったものだ、神の言うことは絶対だから信じなさい、信じないものは救われないとなっているのはたしかだろう。
一神教は進んだものというばかりに他の宗教を無くそう、改宗させようとしているのも確かだろう。
そう言っている人は大面目だし、親切から改宗させようとしているのだろうが、やられる方にすれば大きなお世話だがこっちもこっちで同じ事を考えているから始末が悪い。
その点からいって仏教にはこの世の始まりがない。
この世をだれかが作りあげたわけでもない(そんな仏教があれば偽物だろう)。
日本では神教がありこの世を作った話があるので混同しそうだが。
以前どうして別の宗教を認める事ができなけのかと思った事があるが、自分の神が唯一と考えているのではどうしようもない。
本を読んで心にゆとりができる様な内容でなければ読む価値がない。
自分のやっている事は正しいと言いながら押しつけてくるのには困ったものだ。
広い心で相手の考えは本当はどうなんだろうと考えて行動する様に教えてくれる人はいなかったのか。
今日も読みなから考えてしまった。

2007年05月22日

久しぶりに

久しぶりにchaosへの書き込み。
今「ブッダー大人への道」という本を読んでいる。
スリランカの仏教徒とあるアルボムッレ・スマナサーラという人が書いた本だが、元々は高校で講演した内容をまとめて本にしたもののようだ。
内容はいいのだが他の宗教や日本の大乗仏教を否定している様に書かれているのが気になる所だ。
どうも他の宗教を批判するのはいかがなものかと思う。
といっても以前このブログで批判しているような内容を書いているものが何を言っているんだとなるかもしれない。
しかしそれを含んでいるにしてもブッダの言葉が書かれているのはなかなかその内容がおもしろい。
以前一神教だ多神教だと書いたが、考えてみれば仏教に神は出てこない。
無神教といえばそうかもしれない。
仏様は仏であって全知全能の神ではないのだから。
それはそれとして今2回目を読んでいる。
1回読んだぐらいでは頭に入らないので、この手のものは2回読むことにしている(本代がかかるからという話もあるが)。
次に今気になっているものにダライラマの本がある。
立ち読みした程度だが心に余裕がもてるのではと期待している。
さて、続きでも・・・

2007年02月03日

仮説

「99.9%は仮説」という本があります。
この本、最初のプロローグが「飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていない」であったため初めはそんな話ばかりかと思ったのですが、「思い込みで判断しないための考え方」という副題のままの本です。
つまり、現在信じられることは本当に信じられることなのか、仮説で出来上がっているのではないかを前提に構成されています。
頭を軟らかくしなければならない。
あやゆるもの、定説となっているものはいつまでもそのままというわけではない。
いつなんどき覆されるかわからないということです。
最後には相対性理論にまで行きます。
そして、最後には時間や空間が実在するかどうかもどうでもいいという理論になります。
仮説、定説なんかはどうでもいい、全ては相対的にものを見なければいけないとなっています。
内容としても面白いのですが、だんだんこんがらがってくるのも確かです。
しかし、面白い内容です。

2007年01月16日

ユダの福音書(3)

久しぶりに「ユダの福音書」の初めのところを読んでみた。
元々新約聖書に収録されている福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書だが、最初の頃(黎明期)にはもっといろいろな福音書が存在したようだ。トマス、ペテロ、ピリポ、マリア、エビオン派、ナザレ人の福音書など無数のものがあったようだ。
その頃はキリスト教にもいろいろな派があり、2~4世紀の神学論争の嵐の中で勢力争いに勝利したのはユダの福音書などがその立場を取るエジプトのグノーシス派ではなかったようです。
グノーシス派は「知識」を重んじる宗教思想で、神とはおのれの中に存在する魂であり、内なる光であるとした。た、仲介者抜きで直接神と関わろうとする自由な発想であったために後に主流派となった方からは異端扱いされていたらしい。
確かに、初期に教団を確立しようと躍起になっているほうからすれば全体をまとめづらいものであったと思われる。
ユダの福音書は、初期のキリスト教においていろいろな考え方があったことを伝えてくれている。
キリスト教は教団なんだという気がやっぱりした。

2006年11月27日

ユダの福音書(2)

ユダの福音書などを読んで経典もずいぶん人間的だと書いた。
各宗派、教団を作っていった人たちも聖人君主ではなく、自分に都合の悪いもの邪魔なものは排除してきた様にも考えられる。
実際どうかはわからない。
だいたいどの福音書にしてもイエスの死んだ直後に書かれたわけではないのだから。
後からそれも百年以上たってから書かれたものがすべて正しいといわれても信じていいものか。
特にユダの場合だれかを悪者にしなければならなかったのかもしれない。
そういえばダビンチコードで絵がこうなっているからというのが出てくるが、それこそ何百年もたって書かれたものから真実を探そうというのか。
だいたいにして無理がある。
古くからうけっがれてきた団体に属しているから絵に意味をもたせたということだったが、それを根拠に推論をめぐらせるのも飛躍があるのではないか。
とはいってもユダの福音書も百年以上たって書かれたものだからたいした違いはないのだけれど。
どちらにしても五十歩百歩。
作者の考え方、都合の良い様に書かれたのは想像できる。
これはどの宗教を取っても大きな差はない。
→非常に個人的な片寄った考え方ではあるが。

2006年11月16日

ユダの福音書(1)

もうだいぶ前になるが「ユダの福音書」を読んだ。
本当は本を見ながら書けばいいのだろうが印象だけで書く事にする。
ちょうど相前後して「ダビンチコード」を読んだものだからとらもからまっている。
だだ感じたのは今残っている他の福音書が正確なのだろうかという事だった。前にも似た様な事を書いたが、現在の各宗教の内容がキリストやシャカの思いを伝えているだろうかということだ。
それでれに教団が形成されていく中でだいぶだれかの意志が入っていった様に思われる。
イエスの場合前にも書いたが自分が新しい宗教を始めたという思いがあったわけではなくユダや教徒として亡くなったらしい。
ユダの福音書では親密なイエスとユダの関係が書いてあったと思うし、一般に伝えられるものとはだいぶ違っていたように思う。
だいたい都合の悪いことは消され力の関係で自由に作りかえられるのはしようがないのかもしれない。
ダビンチコードに出てくるマグダナのマリアもそうで、男ぱかりで作った教団にはじゃまたといってしまえばその通りかもしれない。
他の宗教でも女性を別視しているのはいかがなものか。
聖書を含む教典もその編集過程を考えると何とも人間っぽい気がする。

2006年10月04日

宗教について(その3)

せっかくキリスト教までいったのでもう少し。
ではイスラム教です。
イスラム教は戒律の厳しいユダヤ教に人間の都合を入れたキリスト教に対し、あまりにも世の中の都合を優先しすぎるのではないかという反省から生まれた宗教です。
もちろん神は「アッラー」です。アッラーは全知全能で天地万物の創造者であり支配者です。アッラー以外に神はいないと信じるのがイスラム教です。
イスラム教はムハンマドによって始まりました。
しかし、ムハンマドはキリストのように神とは呼ばれず預言者とされています。キリストも預言者といってもよかったのですが周りの人が神格化し神としてしまったといったほうがよいかもしれません。
つまりそれまでの宗教(ユダヤ教)の教えを別の解釈したものでしたが、ムハンマドは神からのお告げをそのまま広めたとされています。つまりコーランにかかれたものは神の言葉そのままというわけで、もう二度と預言者は出ないとなっています。
イスラム教では神の御心のままという言葉があります。つまり自分のしようとすることは神の意志のもとになされているということです。全ては神の希望にしたがっているということになります。
イスラム原理主義という言葉がよく出てきます。原理原則という言葉もありますがこの原理主義はその原理です。ユダヤ教から出たキリスト教に対して元に戻ろう、原理に戻ろうとしたのがイスラム教ですから、イスラム教は原理主義ということができます。
イスラム教は全世界がイスラムの世界になることを目指しています。そのための努力がジハード聖戦です。しかし、イスラムの人たちはイスラム教に改宗することを求めているわけではなく、イスラム教の原理を認めてもらおうとしているだけです。以前「コーランか剣か」と迫ったとされていますが、これはどうもキリスト教徒の捏造したデマで実際そう迫ったのはキリスト教徒のほうだったそうです。
イスラムで自爆テロがありますが、イスラム教徒にとって異教徒から侵略を受け聖戦となった場合イスラム教徒はその聖戦に参加することが義務付けられます。その聖戦の中で戦死することは天国が約束されますから、自爆テロは天国への近道ということがいえます。
ま、よくわかっていないで各宗教について書いても問題がありますから最後とします。

2006年10月02日

宗教について(その2)

宗教を考えるといいましたが、何をどう考えればいいのかで考え込んでしまいました。
主なものには何があるのでしょうか。まずはそれから。
かなり前に(年代調べるのが面倒なもので)元々はパレスチナの地で飢饉となってエジプトへ逃げ込んで、後に奴隷としてエジプトで虐げられていたユダヤ人をモーゼが引き連れてエジプトを脱出した時に神と契約しその契約によって救われたというところから始まるのがユダヤ教の旧約聖書だそうです(いい加減なまとめ方ですいません)。
その内容は戒律が厳しく定められ、生活に制限を加えているものでした。
その厳しいユダヤ教に対し、人間中心のものにしようとしたのがキリスト教です。しかし、キリスト教としたのはイエスの後からの人であって、イエス自身はユダヤ教徒として亡くなったようです。
イエス自身は自分が神だとは思っていたわけではなく、あまりに制限の多い神との契約をもっと人間中心にしたらどうかという新しい契約を提唱したために、その考えに賛同した人たちがイエスを神としたようです。
そのため人間を神とする、偶像として崇拝しようとする動きがユダヤ教からは禁止項目であり脅威とされ多ために処刑されたものです。
キリスト教は契約を人間本意、人間の都合を入れようとしましたが、それがあまりに都合を入れすぎたという反省から、もう一度神中心に戻そうとしたのがイスラム教です。
紀元前13世紀にできたのがユダヤ教で、紀元がキリスト教、7世紀頃にできたのがイスラム教になります。  
また次に続きます。

2006年09月29日

宗教について(その1)

よくいろいろなところで戦いが起こっています。
それも宗教の違いによる戦いが。
イスラム教とユダヤ教の争いならまだしも、キリスト教の中でもカトリックとプロテスタントが争いテロを繰り返したりしています。
日本から見ればどうして争いになるのかとも思うでしょうが、本人同士はもちろん真剣です。
ユダヤ教、キリスト教イスラム教みんな契約宗教であり、特定の神との間に契約しています。
そのため他の神を認めることはなく、神は自分の信じる神だけであり、他には神はいない、他の神を信じているものは自分とは相容れないものであり、否定すべきもの、改宗できないのであれば全否定すべきものなのです。
このような考え方が根底にあります。
だからこそその存在を否定しようとして争いが起こるのです。
力を持てばなんでもできる、自分の考えを押し付ける(本人にすれば正しいことをしている思っているので始末が悪いのですが)ことは正義なのだという考えが出てきているものと考えられます。
そのような考え方は日本人にはどこまで言っても理解できないものでしょう。
たとえキリスト教を信じている日本人でも考え方は日本人なのです。日本人の宗教は神教という考え方もあります。つまりいろいろなものに神を感じる多神教ということです。
だからキリスト教の人も他の宗教を否定することはありません。日本にいる外国からの宣教師も同じようなものかと思えばそうでないのかもしれません。他の宗教を認めているのかもしれませんが、実際は何とか取り込んでしまおうとしているのかもしれません(確かにそのために宣教に来ているわけですから)。
次に続きます、